(94-7-2)
title: 文章の書き方
author: 辰濃 和男
from: 岩波新書
reviewer: 山下 健司(kenji@cs.titech.ac.jp)

「文章の書き方」という題名になってはいるが、この本は技 術論というよりもむしろ文章を書く際の心構えについて、筆者 なりの考えを述べたものである。 さすがに長らく「天声人語」の担当をしていただけあってそ の文章は小気味よく、すらすらすらと読み終えてしまった。特 に、適切な引用がいい。福沢諭吉の「福翁自伝」は何度となく 引かれていて、筆者もかなりの影響を受けているようである。 「福翁自伝」は、僕にとっても大変思い入れのある本である。 高校時代にこの本を読んだとき、「ああ、我が師を得たり」と いう思いがしたものだ。今回、改めて福沢先生の偉大さに触れ ることができた。 本書の論旨は、「文は心である」ということに尽きる。すな わち、いい文章を書くということは、小手先の仕事ではないん だ。日々の生活を豊かに送っている人だけができることなんだ ということです。全くもっともなことだと思います。文章を書 くにあたっては、幅広い視野を持ち、日々の生活にゆとりを持 ち、そして何よりもこれを書きたいんだという情熱を持つとい うことがいかに大切かが良く分かります。(理念としては分か っても、そうやすやすと実践できるものではない)

本書を読み終えて、最近御無沙汰になっている日記をまたつ けるかと思い始めた今日この頃です。

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最後に僕なりに言葉について思っていることを少し。

僕はよく言葉と人間との関わりを貨幣と人間との関わりにな ぞらえる。言葉は言うまでもなく人間の本能の産物である。貨 幣もまた、カール・ポランニーの経済人類学的立場に立てば、 人間の本能の産物であると言うことができる。ポランニーの立 場というのは貨幣というものが最初から交換の手段として存在 していたのではなく、権威の象徴としての財貨が次第に交換の 手段として使われるようになったというものである。この主張 は北米インディアンのポトラッチやマリノフスキーによる贈与 といった興味深い研究対象と大きな関係があるがここでは深く 立ち入らない。 また、最近読んだ阿部謹也先生の『中世の窓から』では、人 と人との関係における言葉と貨幣の役割の違いについて興味深 い指摘がされていた。言葉というものは共同体内部での意思疎 通に欠かせないものである。いわば、言葉が共同体を規定して いるということができる。一方で、貨幣の出現により共同体外 部の人間が貨幣を媒介にして共同体内部の人と関わりを持てる ようになった。このことは共同体の内外での差異を小さくする 反面、共同体内部での人と人との関係を相対化することになる。 注目したいのは、このときに貨幣の出現を忌み嫌った人達がい たことである。人と人との関係に変化を及ぼすということは普 通に考える以上に重大なことではないだろうか。世に革命とい われることは、元を正せば人と人との関係になにがしかの変化 を及ぼしたものではないかと僕は考えている。フランス革命も しかり。産業革命もまたしかり。『殺し合いが「市民」を生ん だ』(カッパ・サイエンス)で、河上倫逸京大教授は「コミュニ ケーション的な能力が問われるポスト・モダン市民社会が存在 し得るのではないか」と指摘しています。これは、情報化社会 と呼ばれ、コンピュータが人と人との関係に重大な変化を及ぼ そうとしている現状を見据えての卓見だと思います。

さらに、言葉と貨幣にはその機能を越えた何かしら神秘的な 力があります。つまり、言葉と貨幣にはそれ自体権力になる得 るという共通点があります。それゆえに、権力者は言葉や貨幣 を支配しようとします。戦時中の日本もそうでしたでしょうし、 秦の始皇帝による焚書坑儒などはその典型的な例でしょう。

このように、言葉と貨幣は人との関わりにおいて興味深い共 通点があります。現在で言えば、「文化」と「経済」の関わり ということになるでしょうか。「文化」に偏ってもいけないし、 「経済」に偏ってもいけない。そのバランスが大切だというこ とでしょう。現在、物質的な富を貨幣が代表するように、精神 的な富の代表として言葉を考えることができるのではないでし ょうか。これは、何も科挙のように博覧強記を推奨しているわ けではありません。それは、必要条件であって十分条件ではな いのです。日本語というものは非常に奥の深い言語だと思いま す。中国の故事から来ているものもあれば、日本独自のものも あります。そのような言葉の奥深さに触れるゆとりを持つこと こそ、精神的に豊になることであると僕は思いたいのです。