(96-11-3)
title: 暗号 --- ポストモダンの情報セキュリティ
author: 辻井重男
from: 講談社選書メチエ 73、 1500 円
reviewer: 渡辺 治(watanabe@cs.titech.ac.jp)

(数学セミナーの書評に書いたものの横流しです)

自分が最近書いた本と同じ題材の本を読むと,自著と比較し たくなるのは当然だろう.私も,太田,黒澤の両氏と,「情報 セキュリティの科学」(講談社ブルーバックス)という似たよ うな題材の本を最近書かせて頂いたばかりである.という訳で, 以下の評では,拙著(以下,「情セ科学」と呼ぶ)と対比させ てしまうが,ご勘弁願いたい.

 本書は文系的な本である.とくに「情セ科学」対比させると, その違いが際だつ.以前から,著者の辻井重男氏の本性は文系 ではないか,と感じていたが,この直観は間違っていなかった ようだ.

 もっとも,辻井氏は,情報セキュリティを含め通信理論にお ける第一級の研究者である.また,電子情報通信学会の会長と いう,ある意味で電気情報系研究者・技術者の頂点に位置する 立場の人だ.つまり,理系の専門家として今まで活躍してきた 人である.しかも,本書では,最新の情報セキュリティを,原 理などの技術的な所まで踏み込んで,かなり詳しく説明してい る.にもかかわらず,本書は文系的である.

 まず,本書は縦書きである.「情セ科学」では,最初から縦 書きは諦めていた.(編集者からは,縦書きの方が売れるとア ドバイスは頂いていたのだが...) もちろん,縦書き・横書き は,単なる見かけの問題である.しかし,整数論や離散数学の 議論が頻繁に出てくる情報セキュリティの解説書を,敢えて縦 書きで書いたのには,それなり理由があったように思える.

 著者が「ポストモダンの情報セキュリティ」と呼んでいるよ うに,1970年代に始まる現代の情報セキュリティ技術は, それまでのものと一線を画している.情報セキュリティの果た す役割が大きく変わったのである.従来は,情報セキュリティ と言えば暗号,暗号と言えば諜報活動.というように,敵を欺 くための技術というイメージがあった.しかし,ポストモダン の情報セキュリティは,信頼関係を築くための技術なのである.

 現在,社会はネットワークの時代へと移行しつつある.これ からは,見知らぬ他人同士が,コンピュータネットワークを通 じて,情報交換や,ビジネスをする機会がますます増えるだろ う.そんな見えもしない他人を無闇に信用するのは危険だ.だ からと言って,疑心暗鬼になっていては,折角のネットワーク も意味をなさない.そんなジレンマを解消する方法が,ポスト モダンの情報セキュリティ技術なのである.

 このポストモダンへの変革の直接の要因は,暗号技術におけ る新しいパラダイムの出現である.簡単に言えば,計算の複雑 さに着目し,その違いを利用して暗号を作るという考え方であ る.実は,そこには,上質の数学マジックがある.我々は,こ の数学マジックこそが,ポストモダンへの変革の鍵だと考え, それを中心に「情セ科学」を書いた.

 それに対し,辻井氏は,ポストモダンへの大きな変革の背景 とその影響を,過去の歴史や社会的環境などを踏まえて書いて いる.ポストモダンへの変革の意義や影響などは,上記のよう に簡単にまとめれば,数行で済む.実際,「情セ科学」でも, ほんの1〜2ページで済ませてしまった.しかし,本書では, 歴史や現在の社会情勢など,いろいろな方向から,この点をし つこく確認している.このように一言で済ませないところが, 本書(文系的姿勢)の強さであり,素晴らしい点だと思う.

 ただし,原理の技術的な説明に限って言えば,横書きにした 分,我々の方に分があるように思う.もっとも,これも読者の 好みによって違うだろう.是非,読み比べて頂きたい.(治)

補足:
1)以前,数学セミナーに,情報セキュリティの科学を書評で 取り上げてもらえるかお願いしたら,あっさり断られたのに, 今度は書評を頼まれたので,多少,やけぎみに書いてしまいま した.
2)最近,文系,理系とは何かなぁ,と考えていたところだっ たので,誤解を招くかもしれないけれど,おもいきって,文系, 理系という言葉を使ってみました.この使い方はよいのでしょ うか???