清水義範の小説は、ピュクシスネットにおいても治氏が以前に多く の本を取り上げランキングを作った。私も清水義範の作品は大好きで 数多く読んだが、その中で私はこれは一番に挙げても良いのではない かと思う。非常に面白く、そして考えさせられる作品である。この小 説はやや独立した7つの章に分かれてはいるが全体として1つのスト ーリーになっており、短編やエッセイが多い清水氏の作品の中では長 い作品に入るだろう。 せっせと雑誌の誤りを見つけて出版社に「お叱りの手紙」を送って くる老人。この小説は、主人公であるノンフィクション作家がこの老 人がどんな人であるかに興味を持ち、その老人に会いに行くところか ら始まる。そしてテレビ局に抗議の電話をかけてくる老婆、「わたく し通信」という自作のミニコミのようなものを作って送りつけてくる 男など、様々な「発言者たち」に主人公は会う。そして作家として有 名になってきた彼にも、発言したい人たちが強引に面会を求め発言を してくる。 新聞のテレビ番組の投書欄を見るたびに、これはいった い誰がどのような気持ちで書いているんだろうかと私は常々思ってい た。そして、これらの投書はどこか文体や視点が共通しており、その どこかがたまに私を苛立たせる。この小説の中に出てくる「編集者へ のお叱りの手紙」「新聞への投書」はこれらの特徴を見事にとらえて おり大笑いさせられる。そして文体のパロディを専門とする清水氏の 才能に改めて感心させられる。 やがて、聞きたくもない近況をパーソナル通信と題して送りつけて くる人、細かい字でぎっしりと年賀状にエッセイのようなものを書い て送ってくる人などが登場し、「ああ、こんな人いるよなあ」と笑い ながら読み進めて行くうちにだんだん不安になってくる。自分も同じ 事をしてるんではないだろうか。例えばホームページやこのピュクシ スネットで自分自身いろいろな発言をしているが、いったいそれとど こが違うのだろうか。小説の中の主人公も、最初は身勝手な発言者達 に苛立つが、やがて同じような不安に駆られる。ノンフィクションを 書く自分も同じではないだろうか、人はなぜ発言したがるのか、と。 小説の中では「世の中には発言を求める人もおり、発言をしたが人も おり、お互い様なのだ」というような感じで救いを差し伸べて終わる 。しかし、この終わり方では救われない読者も多いのではないだろう か。実際、この小説を読んだ私の友人は最初は大笑いしていたが、や がて自分のホームページを撤去してくれと言い出した。 たぶん小説の中の発言者たちに苛立ちを感じるのは、相手がその発言 を望んでいるか喜んでいるかどうかに関わらず自己主張してくる態度 からではないだろうか。私たちは常に発言したがっている、そして発 言も求めている。それで自分を理解してもらい、他人を理解しあえる ならば、そのような発言は許されるのではないだろうか。しかし、自 分の発言とその態度に対して相手が感じる気持ちを察することや自省 の心を忘れたとき、私たちはこの小説の中で揶揄される「発言者たち 」になるのだろう。 |